しかし、私はそのように今考えたり
感じたりしなければならないのではない。
そのような自分の陳腐さを
永久に受け入れる必要はないのだ。
そのような自己卑下が何の役に立つだろうか。
『ユング自伝1』(ヤッフェ編 河合隼雄ほか訳 みすず書房)P266-267
1914年、ユングが39歳になる年、精神分析の理論における方向性の違いから師と仰いできたフロイトと袂(たもと)をわかつことになります。
当時の精神分析学会は、フロイトをリーダーとして発展をとげてきました。
1908年「ウィーン精神分析協会」が設立され、1910年には「国際精神分析協会」が創設されます。その初代会長はフロイトではなくユングでした。これはフロイトの意向であり、それほどユングに期待していたのですね。
ところが、ユングはフロイトの当時の理論に、どうしても納得いきません。「無意識」を否定的にとらえる点や、「個人の心」に限定し、それを分析することにこだわる点などなど…受け入れることができなかったのです。
ユングは、神話や民族を視野に入れて「人類の心」を捉えようとしていました。例えば、心を「意識」「無意識」「集合的(普遍的)無意識」の3つにわけます。「集合的(普遍的)無意識」とは人類に共通する「心の型」のことです。フロイトはこれを認めません。
また、ユングは、フロイトの理論が実践性に欠ける点も指摘しています。
フロイトは神経症的気質の持ち主でした。乗物恐怖や心臓病恐怖の症状に悩まされていた時期もあります。今でいう「パニック障害」です。
ユングは思います。「フロイトの理論が正しければ、自身の理論で、神経症を克服できるはずだ。でも現実は違うじゃないか」と…。
「明らかにフロイトも、彼の弟子たちも、先生でさえ自分の神経症を処理できないとすれば、そのことが精神分析の理論や実践にとっていったい何を意味しているのか理解できなかった。フロイトが理論と方法とを同一視し、それをある種の教義に仕立てあげようとする意向を告げたとき私はもはや彼と協力することはできず、私には退く以外に選択の余地はなくなったのである」
『ユング自伝1』(みすず書房)p239
1914年、ユングは国際精神分析協会を脱退します。
フロイトとの決別は、精神分析学界からの孤立を意味しました。国際精神分析協会を起点につながっていた友人・知人はユングのもとを去っていきました。ユングはオカルト的だと…。
フロイトの関係は1914年に、突然、壊れたのではなく、段階を踏んでです。1914年以前からユングはフロイトの関係で苦悩する中、1912年頃から、自分の「無意識」と格闘していたのです。
ただ、1914年に協会を脱退したことは、ユングの孤立感、不安感(分離不安)をさらに強めました。幻覚を見るようになり、精神的な危機に陥るのです。
日本でのユング心理学の第一人者河合隼雄先生は、この頃のユングをこう表現しています。
分離不安よりもっときつかったんじゃないですか。クライニアン的にいうと、パラノイド・ポジション(妄想的態勢 paranoid position)まで一気に退行した。
『フロイトとユング』(小此木啓吾 河合隼雄 講談社)p48
「クライニアン」とは、精神分析家メラニー・クライン派の人たちのことです。フロイト派をフロディアン、ユング派をユンギアン、アドラー派をアドレリアンなんて言ったりしますね。
「パラノイド・ポジション」は、「妄想的態勢」とあるように、誇大妄想や幻覚を見るようになる精神状態です。これまでユング自身が診てきた患者と同じような症状をユングが体験するのです。
1912年『リービドーの変遷と象徴』を完成させると、科学的な本を読むことができなくなり、それは3年間も続きました。1905年から8年間教えていた大学も辞めてしまいます。
危機のさなかユングは、自分の「夢」はもちろん、幻覚を含めて「無意識の力」に圧倒されながら、内界(心の奥底)から生まれ出てくる様々なイメージと対話を繰りかえし、記録してゆきます。
自分の「無意識」と対決し続けたのです。
それはとても辛く苦しい体験であり、打ちのめされるような感覚を何度も味わいます。精神科医として精神分裂病(統合失調症)の患者を診てきました。自分の状態のその先に何が待っているのかは、ユング自身がよくわかっています。ですので、恐怖もこみあげてきます。
無意識の世界から届けられる難解なメッセージに、冷静さを失いそうになった時、ユングは冒頭の言葉を自分に投げかけ、正気を保とうとしました。
自己卑下が何の役に立つだろうか。
私たちも、仕事で失敗したり人間関係がうまくいかなくなったりした時、自分をだめな人間だと「自己卑下」してしまうことがありますね。
自分を「ダメだ」と自己卑下したら、そう感じたことはひとつの「事実」です。でも、どれだけ「ダメだ」と感じても、本来の自分の「真実」とは違います。 私たちが命をもつ価値ある存在であることは、変わらない「真実」として常にあり続けるのです。ユングがいうように自己卑下する自分の陳腐さを「受け入れる必要はない」のです。
1912年頃から始まった無意識との対決から、ユングに心の平和が戻ってきたのは、1918年〜1920年の間だと自伝には書かれています。
この苦難にあふれた「無意識の対決」を通して、「アニマ」「アニムス」「セルフ」など、数多い、ユング心理学(分析心理学)オリジナルのコンセプトが生まれてきます。ですので、ユングはこう言っています。
「私が内的なイメージを追求していたころは、私の生涯において最も大切なときであった—つまり、そのときに、すべての本質的なことは決定された。すべてがそれから始まった。」
『ユング自伝1』(みすず書房)p283
自己卑下したくなるような辛く苦しい時ほど、自分の真実を知る最も大切な時間になりえます。
(文:まっつん)
カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)