創造価値とは、何らかの「行い」を通して実現される価値のことです。
もし、何か仕事をしているのであれば、その仕事をとおして、人はこの世界に価値を生み出しています。
営業マンが顧客と商談し、経理マンが財務資料を整理し、研究者が実験を繰り返し、教師が生徒と会話し、母親が授乳したりおむつを替えたり…、人は、さまざまな自分に与えられた仕事を通して価値を創造します。
「仕事の大小」ではなく、「感謝される、されない」でもなく、「必要とされているから仕事は存在している」のであり、その必要性が、自分のする仕事そのものに価値があることを証明しています。
アドラーの膝下を去った後、1929年、フランクルは抑うつ状態にある青年たちの相談にのる「青年相談所」を設立します。この相談所は、匿名での申し込みができるようにしました。好評を博し、後に、ヨーロッパの6都市に設立されることになります。
次のエピソードは、『夜と霧』にならぶフランクルの名著『それでも人生にイエスと言う』(春秋社)に掲載されているものです。
ある日、洋服屋の店員である青年がフランクルのもとを訪れました。「生きる意味がない」ということで話し合いになりました。青年はこう言います。
「あなたはなんとでもいえますよ。あなたは現に、相談所を創設されたし、人々を手助けしたり、立ち直らせたりしている。でも、私はといえば……。私をどういう人間だとお思いですか。私の職業をなんだとお思いですか。一介の洋服屋の店員ですよ。私はどうしたらいいんですか。私は、どうすれば人生を意味のあるものにできるんですか。」
本には「議論しました」としか書いてませんが、青年はかなり興奮して怒っているような感じですね。自分の仕事に誇りを持てない青年からすると、フランクルに「生きる意味はある」と言われても、納得できるものではなかったのでしょう。なぜなら、フランクルは「青年相談所」という社会的に意義ある大きな仕事をすでにしている人ですし、また、そのことで上から目線で言われているように感じたからではないでしょうか。
青年の問いに対して、フランクルは、こう書いています。
「この男が忘れていたのは、なにをして暮らしているか、どんな職業についているかは結局どうでもよいことで、むしろ重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最善を尽くしているかだけだということです。
活動範囲の大きさは大切ではありません。大切なのは、その活動範囲において最善を尽くしているか、生活がどれだけ「まっとうされて」いるかだけなのです。」
この考え方を聞き、青年がどう反応したかについて、本には書かれていません。納得したのか、納得しなかったのか、知りたいところです。
でも、フランクルの言うことは、私たちの仕事に対する考え方、仕事に「のぞむ姿勢」について、とても大切なことを言っていますよね。
名の通った大企業に就職し大きな仕事をしていても、手抜きをしたり、全力を尽くすことから逃げるような働き方では、「生きる意味」を満たすことが難しくなります。反対に、名も知らぬ小さな会社で働いていても、自分が与えられた仕事に最善を尽くし、納得できていれば、そちらのほうが「生きる意味」は満たされ、より高い「創造価値」を世界に創りだしていることになるのです。
自分の行うことに、常に「最善」を尽くすことができれば、どんな時でも、この世界に何らかの「価値」を差し出していることになり、「価値を創造」していることになります。それはとても「意味」のあることです。
これが「創造価値」です。
創造価値が、何らかの「行い」を通して、世界に「差し出す」価値であれば、体験価値は、人生での体験を通して、この世界から「受け取る」価値のことです。
創造価値=世界へ価値を「差し出す」。
体験価値=世界から価値を「受け取る」。
人生で「生きる意味」を満たすのは、仕事だけではありませんね。
フランクルを訪れた洋服屋の青年のように、例え、自分の仕事に価値が感じられなくても、自然や芸術など、価値を見い出せるものは、この世界に自分の人生に、たくさんあります。
山登りの好きな人が山頂にたどり着き、快晴の空のもと昇りくる太陽を眺める。大好きなミュージシャンのコンサートに出かけ、会場の観客と共に大合唱し音楽に酔いしれる。スポーツや武道などで、絶対に勝てないと言われた格上の相手に勝利し、仲間と共にに抱き合い喜ぶ。
そんな至高の瞬間に、「この人生は意味ありますか?」と尋ねられたら、その人たちは何と答えるでしょう。きっと、「この瞬間を体験するだけでも、生きている意味がある」と、「生きる意味」を肯定する答えが返ってくるでしょう。
それは体験によって得られた「価値」であり「意味」です。
体験価値には、「愛」もあります。
片想いをだった人に「つきあってください」と告白し、相手も実は好きでいてくれて、恋が実った瞬間はどうでしょう。そして、好きな人とベンチに座り肩を寄せ合い夕陽を眺める。互いに見つめ合う。そんな時、なんとも言えない喜びが体を満たすでしょう。
愛は、至高の体験となり、人生に深い意味をもたらします。
自分の命をかえりみない「無私の精神」をもった人に接した時も、そうです。
自然災害の多い日本では、災害が発生するたびに、自分を後回しにして「人のために」懸命に尽くす人がいまよね。神戸、東日本、熊本で起きた大震災の記憶をたどれば、「無私の人々」の存在を確信するのは、とてもたやすいです。
フランクルは 『それでも人生にイエスと言う』 で、こう書いています。
「命をささげるような人たちがいるうちは、この世の中もひどくないのです。この世の中にそういう人たちがいるうちは生きる意味があるのです」
上の写真は、2013年7月22日の南浦和駅です。列車とホームの間に挟まれた女性を助けようと、その場にいた人たちがみんなで力をあわせて、電車を傾けました。電車の車両は一車両で約32トン。報道によれば、女性は無事に助け出され、病院に運ばれましたが、ほとんど怪我はなかったそうです。
この出来事に海外のメディアも反応し、アメリカとイギリスではニュースで取り上げられました。
こうした「人の善意」の事実を知ると、いろいろ社会は不条理だけど、「まだまだ世の中捨てたもんじゃ無い」って思えますよね。「捨てたもんじゃ無い」ってことは、「生きる意味」があるってことです。
私たちは自分自身が何かを体験することで、この世界から「価値」を受け取ることができます。また、他者の体験を知ることによっても、この世界から「価値」を受け取り、そこに「生きる意味」を見い出すのです。
これが「体験価値」です。
次に「態度価値」について説明します。